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中道歯科医院
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2023年5月29日
令和5年5月院長のマンスリ−ト−ク  ◆昭和30年代の歯科医療−③厚生労働省における歯科行政官
令和5年5月院長のマンスリ−ト−ク  ◆昭和30年代の歯科医療−③厚生労働省における歯科行政官
 国際歯科医師達盟(FDI)は、世界保健機関(WHO)と連携のもとに、毎年開かれている年次総会の際に、ChiefDental0fficerの会議を開催している。 主任歯科技官会議と訳されて、各国の歯科保健衛生業務の責任者である歯科医師が出席している。わが国では、現在の医政局歯科保健課長がこれに該当しており、 歯科保健医療分野のその国の責任者とされている。
戦前の厚生省に正式の形で歯科の技官ができたのは、 昭和17(1942)年で、 2人の歯科医師がはじめて高等官7等として任官した。大西栄蔵氏と水野_太郎氏である。
 戦後間もなくから、 今日までの歴代歯科衛生(保健)課長は以下の通りである。
初代:大西栄蔵(l948年〜58年→国立予防衛生研究所歯科衛生部長)
2代:高木圭二郎(l958年〜63年退官後、東京歯科大学教授、同大学長)
3代:笹本正次郎(1963年〜75年退官後、神奈川県社会保険診療報酬支払基金)
4代:能美光房(1975年〜78年退官後、東京歯科大学教授、のち奥羽大学学長)
5代:三井男也(1978年〜89年退官後、神奈川社会保険診療報酬支払基金)
6代:宮武光吉(東京医科歯科大学卒)    7代:佐治靖介(大阪大学卒)
8代:石井拓男(愛知学院大学卒) 9代:上條英之(東京歯科大学卒)
10代:滝口徹(新潟大学卒) 11代:山内雅司(愛知学院大学卒)
12代:日高勝美(九州大学卒) 13代:鳥山佳夫(大阪大学卒)
14代:田口円裕(長崎大学卒) 15代:小椋正之(長崎大学卒)

 一方、保険局医療課には、歯科技官が課長補佐として在職していたが、昭和40(1965)年に保険局歯科医療管理官が設置され、初代医療管理官に稲葉利正氏が就任した。
 保険局と旧医務局との人事交流は、全くなかったが、1977年に宮武光吉氏が、医療課長補佐に、1983年に歯科医療管理官に任命されてからは、 相互に人事交流が行われている。
歴代の保険局医療課歯科技官および医療管理官(1989年まで)は次の通りである。
○保険局医療課歯科技官
 水野_太郎(1948〜1960年保険局医療課退官後→社会保険診療報酬支払基金)東京歯科医専(1927年)卒、水野旋風伝説、1977年逝去
○医療管理官
初代:稲葉利正(1965〜1975年退官後、全国土木健康保険組合)東京高等歯科(1938年)卒、福井県立病院歯科医長→昭和32(1957)年、 東京医科歯科大学長尾学長の要請により、厚生省保険局医務課に勤務→初代歯科医療管理官(医療課課長補佐から昇任)、歯科界への提言9冊を著述、1999年逝去
2代:山本治(l975年〜83年退官後、社会保険診療報酬支払基金)日本大学歯学部(l956年)卒、 大学院(衛生学教室)→広島県(地方技官)→厚生技官(保険局医療課長補佐から昇任)
3代:宮武光吉(l983年〜89年、1989〜93年歯科衛生課長→東京歯科大学教授→鶴見大学歯学部客員教授)東京医科歯科歯学部(l962年)卒

以下に、歯科行政の基礎を築いた大西栄蔵氏、水野_太郎氏及び高木圭二郎氏の簡単な経歴を記述する。
大西栄蔵氏は、大分県中津で大西吉蔵(小幡英之助の門下生)の長男として出生、 中津中学を経て、東京歯科医学専門学校に進学、大正12(1923)年に卒業し、 母校の口腔外科に入局した。 しかし、 翌年、父吉蔵の死去によって故郷中津に帰って開業し、 大分県歯科医師会の副会長にまでなったが、 地区の歯科界のいざこざに巻き込まれ、 上京し内務省共済会の診療所の主任に就任した。 昭和13(1938)年に厚生省が設立された時に、 厚生省歯科診療所に移り、 厚生省衛生局の嘱託となり、 医務課の歯科医事衛生行政に関わることとなった。そして、 昭和17(1942)年に正式の厚生技官となった。 昭和34(1958)年退官後、 国立予防衛生研究所歯科衛生部長に就任した。
水野_太郎氏は、 明治36(1903)年、 名古屋市の乾物問屋の家で出生、 除隊後、 ふとした縁で東京歯科医学専門学校に入学、 昭和2(1927)年卒業後、 母校の保存学教室に残り、 花澤鼎氏らの指導を受ける。 当時の日本歯科医師会長の血脇守之助氏は、 昭和10(1935)年、 水野氏を助教授のまま、 国からは給与のない無給嘱託の形で保険院に無理やり入れた。 そして、昭和17(1942)年1月、大西栄蔵氏とともに、はじめて高等官7等の保険院の技師という正式の役人となった。下積みを7年も勤めた。就任後「健康保険保険歯科医療養担当規則(省令106号)の作成に取り掛かった。 戦後も「社会保険口腔治療標準指針」を作成し、社会保険行政の立場で、適正歯科医療を推進したが、歯科保険医療の厳しい監査は「水野旋風」と呼ばれ批判されたこともあった。
高木圭二郎氏は、 大正2(1913年)4月東京で出生。東京歯科医学専門学校に進み、昭和10(1935)年に卒業、 母校の口腔外科に残る。 昭和13(1938)年に助手の身分のまま厚生省予防局に嘱託として派遣され、 昭和17(1942)年にハルピン医科大学附設歯科医学院の教授となる。 終戦後、 帰国して昭和22(1947)年12月、 厚生省医務局の技官に戻り、 昭和23(1948)年8月に歯科衛生課が設置されると、課長補佐として課長の大西栄蔵氏を援けて歯科衛生行政に携わった。 日本歯科医師会雑誌の昭和29(1954)年12月(7巻1号)から翌年の9月号まで大西栄蔵氏と連載した「わが国の歯科衛生の現況について第一編・主要歯科疾患の蔓延状況とこれが要する治療費及び所要時間等の推定並びに全歯科医療施設における診療行為別年間診療量の推定について」という論文と、昭和31(1956)年4月(9巻1号)から8回にわたる第二編「歯科医療関係者及び歯科医療施設」という貴重な論文を残している。第一編は昭和32(1957)年に始まった「歯科疾患実態調査」の前駆的なものである。 昭和31(1956)年には、 行政改革で歯科衛生課は看護課とともに廃止され、 歯科衛生行政は参事官制度で運営されることとなり、 昭和33(1963)年4月、高木氏は歯科参事官となった。昭和38(1963)年4月歯科衛生課が復活した時に歯科衛生課長となったが、その年の11月には退任している。 その後、 東京歯科大学教授を経て、同大学の学長に就任した。

参考文献
1.榊原悠紀田郎:続歯記列伝.クインテッセンス出版,東京,2005.
2.宮武光吉:第37回日本歯科医学史学会学術大会 特別講演「厚生省歯科衛生課創立60  年を振り返る・歯科行政官の系譜」

以下に、宮武論文に掲載された「歯科行政官の系譜」関連資料(1945~2009年)を示す。


   


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