日本の歯科医学教育は、医学教育と異なって非常に遅れ、明治初期においては、個人教授の域を出ず、明治16年10月23日の太政官布達第34号の医術開業試験規則公布後、受験準備のための講習会が各地に設けられ、明治21年、歯科矯和会という講習会が東京に、その後、大阪、神戸、山口にも類似のものが生まれた。 明治時代の歯科医術開業試験は、700〜800名の受験者に対し合格者50〜60名と合格率も低く、試験は学説(解剖・生理・病理・治術・薬品・器械)と実技(技工と外科-口頭試問)であった。医科専門学校を卒業していない人が受験するためには2年以上の修学が必要であり、通常は、歯科医院の見習い書生として朝6時に起きて歯科医院の手伝いをして、終わった後夜学(歯科医学校等)で学んだ。歯科医籍登録第一号は東京府士族青山千代次で明治17年11月3日に登録された。明治20年までの登録者は60名であった。なお、日本人としての西洋式歯科医院開業の嚆矢は明治8年10月の小幡英之助であるが、彼は米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学んだ後、東京医学校における歯科専門の考試に及第し、歯科医術開業免許状を受けたもので、免状は医籍第4号であったが歯科専門医としては最初であった。 明治21年、近代西洋医学を米国で学んできた高山紀斎によって私立の東京歯科専門医学校(翌年廃校)が設立され現代歯科医学教育の扉が開かれた。明治23年(1890)、高山紀斎が東京芝伊皿子に高山歯科医学院を設置、さらに明治33年(1900)血脇守之助がこれを継承し、神田小川町に東京歯科医学校を設置、翌年神田三崎町に校舎を移した。高山歯科医学院の第一年度入学者は僅か九名にすぎず、またその後十年間の全卒業生数を合算しても僅か53名(一時就学者542名)にすぎなかったため、授業料収入は極めて少なく本校の維持経営も楽でなかった。 明治40年に設立の認可を受けた共立歯科医学校は中原市五郎が設立したが、当初は歯科医術開業試験受験の予備教育機関であった。学技両全にして人格高尚なる歯科医師の養成が重点とされ、明治42年6月1日に中原が私財8千円を投じて土地と家屋を購入し附属医院も設置して日本歯科医学校となった。当時の歯科医師の地位は一般医師に比して劣っており人格教養の点においても甚だ遺憾ということで、中原は歯科医師の地位の向上と人格の陶冶の必要を力説した。 歯科医学校は歯科医師試験を受ける者を対象とする教育機関で、昼間または夜間に授業した。修業年限は2年で、入学資格には制限はなかった。その後、歯科医師試験規則の改正で受験者の資格が向上したので、この種の歯科医学校は大正10年限り廃校になった。 明治39年第22帝国議会において歯科医師法が成立し、歯科医師は歯科医学専門学校卒業者に限られることとなった。8年間は従来の試験規則によることとされ、又指定を受けない医専卒業者には試験が課された。 明治40年(1907)、専門学校令によって東京歯科医学校は東京歯科医学専門学校となり、血脇守之助はその校長となった。血脇守之助は資金捻出のため三崎町稲荷横の空長屋を借りて血脇歯科医院を開業し月98円の収入を得たといわれる。明治42(1909)、日本歯科医学校は日本歯科医学専門学校となった。日本の歯科医学教育を先導したのは血脇守之助と中原市五郎である。 明治44年の歯科医師数は1,241人で歯科医学専門学校卒業者56(4.5%)、歯科医師試験及第者1,156(93.15%)という内訳で殆どが歯科医師試験及第者が占めた。 大正14年には歯科医師数は11,392人となったが、歯科医学専門学校卒業者3,544(31.1%)、歯科医師試験及第者7,755(68.1%)で、大正年間に入り歯科医師試験の合格率も大幅に上昇し、歯科医師数は9.2倍に伸び1万人を超えた。昭和8年になってはじめて、歯科医学専門学校卒業者(9,139人)が歯科医師試験及第者(8,761人)より多くなった。 明治40年以降設置認可を受けた歯科医学専門学校は以下の通りである。
多年の懸案であった官立歯科医学校は昭和3年10月12日に専門学校として設置が実現した。東京医科歯科大学の前身である東京高等歯科医学校である。 昭和12年の日本歯科医学専門学校の学科課程表は表の通り。 昭和16年10月16日、戦局に対し大学等の在学年限または修業年限の臨時短縮に関する勅令及び文部省令が公布され、専門学校の昭和17年3月に卒業見込みの者は、その卒業期を繰り上げて昭和16年12月に卒業することとなった。翌年度は9月卒業と修業または在学年限の短縮は、最高学年の者に限り女子の学校も繰り上げ卒業を行った。 昭和19年と20年には本土決戦を迎えて学徒の常時勤務する動員態勢が決定し、勤労、教授、訓練の一体強化が図られた。指定の歯科医学専門学校の卒業者は1年以上歯科診療の修練を経または1年以上歯科診療に従事した者は、当分の間医師試験を受験することができ、その合格者で更に6月以上医師としての診療の修練を経た者に医師免許を与えられることとなった。これに基づき昭和20年9月に特例の医師試験が実視され、合格者は昭和21年4月から6月間診療の修練を経て医師免許を付与されたが、本令の措置は1回限りであった。
日本歯科医師会
富山県歯科医師会
富山市歯科医師会
日本の歯科医学教育は、医学教育と異なって非常に遅れ、明治初期においては、個人教授の域を出ず、明治16年10月23日の太政官布達第34号の医術開業試験規則公布後、受験準備のための講習会が各地に設けられ、明治21年、歯科矯和会という講習会が東京に、その後、大阪、神戸、山口にも類似のものが生まれた。
明治時代の歯科医術開業試験は、700〜800名の受験者に対し合格者50〜60名と合格率も低く、試験は学説(解剖・生理・病理・治術・薬品・器械)と実技(技工と外科-口頭試問)であった。医科専門学校を卒業していない人が受験するためには2年以上の修学が必要であり、通常は、歯科医院の見習い書生として朝6時に起きて歯科医院の手伝いをして、終わった後夜学(歯科医学校等)で学んだ。
歯科医籍登録第一号は東京府士族青山千代次で明治17年11月3日に登録された。明治20年までの登録者は60名であった。なお、日本人としての西洋式歯科医院開業の嚆矢は明治8年10月の小幡英之助であるが、彼は米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学んだ後、東京医学校における歯科専門の考試に及第し、歯科医術開業免許状を受けたもので、免状は医籍第4号であったが歯科専門医としては最初であった。
明治21年、近代西洋医学を米国で学んできた高山紀斎によって私立の東京歯科専門医学校(翌年廃校)が設立され現代歯科医学教育の扉が開かれた。明治23年(1890)、高山紀斎が東京芝伊皿子に高山歯科医学院を設置、さらに明治33年(1900)血脇守之助がこれを継承し、神田小川町に東京歯科医学校を設置、翌年神田三崎町に校舎を移した。高山歯科医学院の第一年度入学者は僅か九名にすぎず、またその後十年間の全卒業生数を合算しても僅か53名(一時就学者542名)にすぎなかったため、授業料収入は極めて少なく本校の維持経営も楽でなかった。
明治40年に設立の認可を受けた共立歯科医学校は中原市五郎が設立したが、当初は歯科医術開業試験受験の予備教育機関であった。学技両全にして人格高尚なる歯科医師の養成が重点とされ、明治42年6月1日に中原が私財8千円を投じて土地と家屋を購入し附属医院も設置して日本歯科医学校となった。当時の歯科医師の地位は一般医師に比して劣っており人格教養の点においても甚だ遺憾ということで、中原は歯科医師の地位の向上と人格の陶冶の必要を力説した。
歯科医学校は歯科医師試験を受ける者を対象とする教育機関で、昼間または夜間に授業した。修業年限は2年で、入学資格には制限はなかった。その後、歯科医師試験規則の改正で受験者の資格が向上したので、この種の歯科医学校は大正10年限り廃校になった。
明治39年第22帝国議会において歯科医師法が成立し、歯科医師は歯科医学専門学校卒業者に限られることとなった。8年間は従来の試験規則によることとされ、又指定を受けない医専卒業者には試験が課された。
明治40年(1907)、専門学校令によって東京歯科医学校は東京歯科医学専門学校となり、血脇守之助はその校長となった。血脇守之助は資金捻出のため三崎町稲荷横の空長屋を借りて血脇歯科医院を開業し月98円の収入を得たといわれる。明治42(1909)、日本歯科医学校は日本歯科医学専門学校となった。
日本の歯科医学教育を先導したのは血脇守之助と中原市五郎である。
明治44年の歯科医師数は1,241人で歯科医学専門学校卒業者56(4.5%)、歯科医師試験及第者1,156(93.15%)という内訳で殆どが歯科医師試験及第者が占めた。
大正14年には歯科医師数は11,392人となったが、歯科医学専門学校卒業者3,544(31.1%)、歯科医師試験及第者7,755(68.1%)で、大正年間に入り歯科医師試験の合格率も大幅に上昇し、歯科医師数は9.2倍に伸び1万人を超えた。昭和8年になってはじめて、歯科医学専門学校卒業者(9,139人)が歯科医師試験及第者(8,761人)より多くなった。
明治40年以降設置認可を受けた歯科医学専門学校は以下の通りである。
(東洋歯科医専)
(明華女子歯科医専)
(東京女子歯科医専)
多年の懸案であった官立歯科医学校は昭和3年10月12日に専門学校として設置が実現した。東京医科歯科大学の前身である東京高等歯科医学校である。
昭和12年の日本歯科医学専門学校の学科課程表は表の通り。
昭和16年10月16日、戦局に対し大学等の在学年限または修業年限の臨時短縮に関する勅令及び文部省令が公布され、専門学校の昭和17年3月に卒業見込みの者は、その卒業期を繰り上げて昭和16年12月に卒業することとなった。翌年度は9月卒業と修業または在学年限の短縮は、最高学年の者に限り女子の学校も繰り上げ卒業を行った。
昭和19年と20年には本土決戦を迎えて学徒の常時勤務する動員態勢が決定し、勤労、教授、訓練の一体強化が図られた。指定の歯科医学専門学校の卒業者は1年以上歯科診療の修練を経または1年以上歯科診療に従事した者は、当分の間医師試験を受験することができ、その合格者で更に6月以上医師としての診療の修練を経た者に医師免許を与えられることとなった。これに基づき昭和20年9月に特例の医師試験が実視され、合格者は昭和21年4月から6月間診療の修練を経て医師免許を付与されたが、本令の措置は1回限りであった。