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2021年5月24日
令和3年5月院長のマンスリートーク◆戦前の健康保険歯科診療−②健康保険歯科診療開始の背景
令和3年5月院長のマンスリートーク◆戦前の健康保険歯科診療−②健康保険歯科診療開始の背景

 先月は戦前の健康保険歯科診療が昭和2年に開始されたことを書いたが、健康保険に歯科が入ったことは画期的な事であり、そこまでに至った背景について述べる。
(健康保険の成立まで)
 労働者に対する国の保険は、ドイツにおけるビスマルクの社会改良計画の一つとして明治16(1883)年に成立した「疾病保険法」を嚆矢とする。
 わが国では内務省衛生局長だった後藤新平が明治25年12月「労工疾病保険法」と題する演説を行い、明治28年には総理の伊藤博文に「建設的社会制度」という名で建白した記録がある。その中心は医療問題であり、議院方面にも働きかけたが計画は消えてしまった。
 後藤は日清戦役後における日本資本主義の確立と展開に伴って、貧富の差が増大し、明治維新後における窮民と異なる新しき貧民の発生に着目し、貧民=労働者が生産の担い手であり、社会主義の主体的勢力となる可能性を危険視し、これらに対する施策こそが日本資本主義を発展させ富国強兵の基礎となることを確信していたといわれる。このように、後藤は一つの慧眼をもった熱心な進歩的社会改良家であった。
 大正3年7月第一次世界大戦が勃発し、大正6年にはロシア革命があり、大正7年11月には休戦調印が行われるなど、世界的な動乱の中でわが国も著しい影響を受け、労働運動も第一次大戦による日本資本主義の飛躍的発展のうちにその基礎が確立された。大戦による好況は、わが国に戦時超過利潤をもたらしたが、労働階級はかえって窮乏化していった。明治44年に制定され、大正5年から施行された工場法はわが国最初の社会政策であったが、この工場法の後に災害や疾病に関する社会保険が用意されることが急務となった。
 大正7年には米騒動、続いて労働争議の発生が最高記録を示した。大正9年、憲政会の手になる疾病保険法案と失業保険法案が同党の片岡直温と江木翼によって衆議院に法案を提出されたが、審議未了で翌年政府立法として「健康保険法案」が提案され、成立した。健康保険は大正13年から実施されることになっていたが、大正12年の関東大震災のため、その後改正が加えられ昭和2年から実施されることとなった。
 健康保険25年史には、「健康保険制度は、わが国最初の試みであったために、その調査立案に当たっては、各種労働事情が明瞭を欠き、保険の基礎となる資料の不足のため、参考となるべきものがすくなかった事情のために、非常な困難がともなったのであるが、本制度の緊急な必要性にかんがみ、幾多の困難を排しつつ、全国の主たる工場鉱山等について、労働者数、賃金、その他生計の事情等を調査し労働課新設後1年余を経た大正10年11月に至り、健康保険法要綱案を脱稿」とある。
(健康保険歯科診療の開始)
 歯科医療については、手技に依存する部分が極めて大きく、しかも歯科材料・技工物に用いる修復のような仕事は、医療の補助的手段であって、医療そのものではないという観念に一般社会だけでなく歯科界も支配されていたので、医療の社会化が遅れた。
 国は歯科の健康保険の給付には消極的であった。歯科技工は、きわめて高価なものであるから、制度の運営が軌道に乗るまでは保険経済安定のため政府管掌には取り入れないという方針であった。歯科界全体は医療の社会化という流れに対してはまったくといってよいほど無関心という状況であった。
 しかし、日本歯科医師会は、「労働者の健康を保持し併せてその能率を増進し疾病を未然に防止するためには、基礎的な療法として歯科技工方面の治療行為をも完成せしめ以て立法の真意義を達成することを必要と存じ候」という要望書を提出し、歯科も健康保険に導入された。
 当時の日本歯科医師会会長血脇守之助は後日「ムシ歯の病魔は公然と人の生命を脅かすが如き戦いを避けて人の知らぬ間に常に陰謀を逞しくし静かに徐ろに全身の抵抗力を弱め、いろいろの伝染病に罹り易き素質を作り、胃腸病、呼吸器病、心臓腎臓の病気や、リウマチなどの諸病を起こすのでありますから、これこそ最も油断のならぬ敵といわねばなりません」と語っているが、歯科が健康保険に取り入れられたことは口腔が全身の健康に密接に関連していることが認められた瞬間といっても過言ではない。大正8年から昭和21年まで日本歯科医師会会長を努めた血脇守之助がいなかったら歯科医療の社会化は大幅に遅れていたかもしれない。血脇は一つの慧眼をもった熱心な進歩的社会改良家の1人といえる。また、大正8年に5千人程度だった歯科医師数が昭和2年には1万3千人と倍以上になったことも、歯科医療の社会化を実現させた要因であろう(表 歯科医師数)。

 昭和4年に始まった世界恐慌は日本にも及び昭和6年は実質国民総生産(GNP)は戦前の最低、工業製品価格指数、農産物価格指数もどん底となり、輸出額も最低となった。
 そこで、昭和6年度の協定に際し財界不況により政府から減額の申し込みがあり、両者熟談の結果、料金表の各項目に亙って変更を加え、全体で1割1分強を減額した(別表)。昭和6年末の金輸出禁止以来、金地金が騰貴を招来して歯科治療の打撃となった。

   


当院の特徴紹介
いつも、総山先生の教えを守るよう治療に当たっています。
院長は、この事業の設立時から中心的役割をにない一定の成果を出しました。
年に1回は必ず「かかりつけ歯科医」で健診することが重要と考えます。
良質な音質のBGMを流してます。
患者にとってより安全で安心できる歯科外来診療の環境整備は万全