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中道歯科医院
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2016年3月22日
平成28年3月院長のマンスリートーク◆富山にいた松井源水のその後
◆富山にいた松井源水のその後
富山市における歯科医は、明治32年4月に開業した吉田幸夫、33年8月の島川安次郎、このあと34年5月の菅田良雄の3人がはじまりである。これ以前には総曲輪にも入歯歯抜口中治療医(旧来の歯科医)がいた。富山県の統計によれば、入歯歯抜口中治療医(旧来の歯科医)が明治16年に8名、17年に10名いたという記録がある。(詳しいことは、小生が編纂委員長としてまとめた富山県歯科医師会100年史「一世紀録」にある)

明治20年から30年代まで、歯医者といったら松井源水といったように、歯医者の代名詞のようなものであった。

明治28年1月の新聞記事に次のようなものがある。


○外人の歯痛全治 本県尋常中学校の雇教師フォースタ氏(米国人)は、先年横浜に於て歯痛の際、医師に就て治療を乞ひたれど全治せざりし歯が、今度西町の歯医松井源水の治療にて全治したるよし。

時は日清戦争中で、フォースタはまもなくワシントン駐剳清国大使館顧問となって富山を離れた。(赴任したのは25年5月で、ウエルズの後任として、人物学力とも遥かに優等といわれた。外国人の教員雇用は21年のブラウネルにはじまる)。

これによって、松井源水の歯治療の秘法が、富山でも行われていたことがわかる。「明治の富山を探る」(水間直二著)より。

謎の多い松井源水ではあるが、史実的には、昭和54年刊行された「市制90周年記念出版 明治の富山をさぐる−総曲輪を中心として−」に松井源水の事が書かれているが、「源水の長男は明治34年富山中学の13回生として卒業しているが、その後の消息は不明で、松井源水と名乗った人の人物誌は、いまだその結末を書くには至っていない。」と書かれそこで終わっている。

平凡社大百科事典(昭和8年版)によれば

「マツイゲンスイ 製薬家。元祖を玄長といひ越中国戸波の産、永正9年6月老母の難病を嘆き立山奥ノ院に籠って17日の通夜をなし、満願の夜神の御告によって反魂丹を創製し、その霊薬を業とした。二代目道三の時富山袋町に移り、武田信玄から売薬御免の朱印を貰ひうけたが、江戸にてその薬を売り弘めたのは延宝天和の頃であった。薬を売弘める御愛嬌として演じた博多一流の曲独楽が宣伝さるるに至ったが、本来は枕の曲即ち枕返しを家の芸とし、見物を浅草奥山に集めて江戸の名物となった。時にまた見物人の虫歯を抜き人々を驚かした。享保11年11月13日徳川将軍家家重浅草へ御成の節浅草寺本堂に於て独業と枕の曲の上覧となって以来、御成御用の符を拝領して、御用の高張提燈を掲げ、代々浅草田原町里俗源水横町に自宅をかまえて威勢を張った。」とある。

その後、13代目は慶応2年アメリカ人ペンコツと契約し、曲独楽を以て洋行し、明治2年「源水洋行日記」を著し、明治3年死去した。また、15代目は14代の門に入り、文久3年に後を継いだ。明治3年英米両国を打ち廻り、1万円以上の土産を得て帰朝し、明治29年退隠して養子を16代となし、明治40年74歳にて死去し、本所表町栄昌院に葬られた。

富山に来た16代目の松井源水は、祖先の墓を尋ねるため来たという事であるが、いつきたかは定かでないが、明治28年1月西町22番地で外人の歯痛を治した。そして、明治42年9月西三番町20番地に移る。その辺までのことはこれまで記述されていた。

今回、富山市歯科医師会の新春を寿ぐ会の後、富山市保健所の所長に就任された元井勇氏と二次会でご一緒させていただいた時に、元井氏の口から「うちの母がよく松井源水の話を祖母から聞いていて、今でもその墓を守っている」という意外な話を耳にした。松井源水については消息不明で分からないと思っていたが、世間は狭いものである。翌日メールで源水の墓の写真をいただきびっくりした次第である。松井家の墓は明治15年に建立され、今も富山市梅沢町の極楽寺にある。

後日、富山市歯科医師会会長の宮本先生と広報の高橋先生と3人で元井先生のご自宅を訪問し、お母様の雅子さんから富山にいた16代目松井源水の詳しい話を伺った。

それによれば、富山にいた16代目松井源水は大正4年、病気になり、長男のいる浜松に行き、62歳で大正9年没とのことである。大正4年に撮った写真も見せていただいた。

16代目の松井源水の長男源長は明治16年3月生で27年付属小、34年富山中学卒。38年に金沢医専を卒業後軍医となり、後浜松に赴任した。次男源次は明治44年富山中学卒業後、金沢医専へ進学したが、結核にて大正4年没。三男富三郎は明治44年付属小卒で、富山商業1回生。商人となり東京へ行った。長女節は明治44年生。大正12年兄富三郎を慕い東京へ行くが数日後、関東大震災で被災し富山に戻った。

長女節さん(元井家へ嫁ぐ)の子供が雅子さんで、孫が元井勇氏(医師)ということになる。富山にいた16代目松井源水の血は歯科医ではなく医師としてしっかり富山で受け継がれていた。

   


当院の特徴紹介
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院長は、この事業の設立時から中心的役割をにない一定の成果を出しました。
年に1回は必ず「かかりつけ歯科医」で健診することが重要と考えます。
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